初もうでやお墓参りで手を合わせて
神や仏にお願いをすることがある。
人間っていい加減都合よく出来ているね。
私は神様はいらしゃると思う。
でも宗教は信じない。
本当は神はひとりなのに、
人間(教祖)の考え方で多くの宗教と教派を生み出し
世界を混乱に陥れているから。
自分が正しい、相手が悪い などと
考えの違いを認めないから
世界から戦争は無くならないのだ。
隣人を愛せよ と唱えながら
これは聖戦だ などと平気で言う。
金で解決しようとするのも嫌なところ。
免罪符しかり、寄進しかり。
そもそも、寄付やお布施は
自分のこころづけであるべき。
家の格がどうたらで、
金額を指定され強制されるのはおかしい。
なんだかなあ
と思いつつ、いつもお供えやお布施を出している。
そんなときに思い浮かぶのが
「月の兎」というインド仏教のお話。
猿、狐、兎の3匹が、山の中で力尽きて倒れているみすぼらしい老人に出逢った。3匹は老人を助けようと考えた。猿は木の実を集め、狐は川から魚を捕り、それぞれ老人に食料として与えた。しかし兎だけは、どんなに苦労しても何も採ってくることができなかった。自分の非力さを嘆いた兎は、何とか老人を助けたいと考えた挙句、猿と狐に頼んで火を焚いてもらい、自らの身を食料として捧げるべく、火の中へ飛び込んだ。その姿を見た老人は、帝釈天としての正体を現し、兎の捨て身の慈悲行を後世まで伝えるため、兎を月へと昇らせた。月に見える兎の姿の周囲に煙状の影が見えるのは、兎が自らの身を焼いた際の煙だという。 (以上Wikipediaより引用)
私が読んだものは子供向けの童話でしたが、
概要は↑のようなものでした。
信心を試そうとする、
神様自身もちょっとなあ…なお話。
この人間臭さに唖然とする。
(もともとインドの神様は容赦がありません。
そして、そのお話を作ったのは人間ですから)
とにかく、宗教は人を救うようでいて
金縛りにかけているような気がします。
母はT教のお供えのために
大量の野菜を作っていたのだが
身体が思うように動かなくなった今、
十分な量が確保できないことに不安を抱えている。
月参りにこられた宗教家に対し
少なくて申し訳ない と言い訳。
お供えの量で救われるわけではなかろうに。
とりあえず、
豆類の植えつけは代行しましたが、
その後の夏野菜はどうしましょうか。
きっと沢山植えて沢山収穫したいのでしょうが
私は兎にはなれません。